
昭和四十七年四月から三歳児童教育が始まり障害が重なっても、その恩恵を受けることができました。ろう学校生活が始まったのです。おむつをし、よたよた歩きの姿は、先生や他の父母の目には、奇異に写ったことでしよう。それまでは、選ばれた子供たちが四歳から教育を受けていたと聞きました。
視力のハンディは文字や物を見るのには、大変な障害でした。左目0.2右目0.01ですから、焦点を合わせるためにいつも眼球が動いているのです。一般の近眼や遠視とは違い、メガネでは、矯正できない目ですから弱視用の分厚いレンズで文字を見るためだけのメガネを使’っています。高等部のころから右目が全く見えなくなりました。そのころから焦点を合わせる必要がなくなり物を見ることが楽になったようです。私は、子供の障害を隠すことはしませんでした。小、中、高の同窓会や手話での会合など、できる限り兄弟を連れて参加しました。三番目が生まれるときは、PTAの役を引き受けていましたので、生まれてからも、堂々と赤ん坊を連れ会議や大会に参加しました。学区の子供会の副会長や、ママさんソフトの監督、区の副会長もやりました。母親が何を一生懸命やっているのか、現場を見せることによって本音の子育てができたと思っています。
私が、手話を勉強したことによって、聴覚の障害は生きて行くために大変な障害であることを思い知らされたのです。視覚障害者は、見ればわかりますが、聴覚障害者は、見ても分かりません。そのために、誤解を受けることが多々あります。情報障害者とも言われています。社会での変化の情報ではなく、耳からの言葉の学習ができないため、言葉の数が足りないので
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